近年「シェア」という言葉が浸透しています。真っ先に思い浮かぶのは「シェアハウス」でしょうか?経済面だけではなく、他人と一緒に住む、ということに魅力を感じることもあるようです・・・「シェア」は現代の社会に合致した、とても素敵な言葉だと思います。
SNSなど、人と人とのつながり方が大きく変化した中で、同じ空間で人と人が会う機会は実際に減っていると思います。
その中で、私達ユースターのような福祉に従事する事業所は「通う」「会う」など、人と人が対面で、同じ空間を共有して支援をするのが前提として作られています。このことに私は疑問を抱かずにはいられません。
ユースターはそのような限定的なシチュエーションだけではなく、リモートや時間差など、様々な状況でも利用される方とつながることを大事にしています。対面でお会いして支援するのが良い?のかもしれませんが、それ以外の方法を否定したり、認めないということはするべきではないと思っています。なぜなら、ユースターの支援を期待くださる方の中には、ユースターという場所に通ったり、対面でサポートを受けるまでにしばらくの猶予(期間)を必要とする方もいらっしゃるからです。むしろじっくり時間をとった方が結局は社会に出るための近道になる、という方もいらっしゃるからです。そのような方に、ユースターでは対面を強いることはしたくないからです。
そもそも、社会とは「通う」場所ではなく「自分が存在する場所」「自分がいる場所」です。就労支援は社会に通うことができるようになる支援ではありません。
学校に目を転じてみますと、文部科学省の報告では、「不登校」の学生が、小中学校で30万人いらっしゃるそうです。一年で5万人増えています。高校でも5~6万人です。教育の現場でも「通う前提」の作りになっているから、登校ができない「不」の状態が問題のように扱われてしまうのではないでしょうか。どこででも教育を受けられる、という基盤がある社会ができると良いなと心より思います。
シェアとは「分け合う」「共有」する、という意味の他に「つながる」「分担する」といった意味もあると思います。
多様な方々がつながり、それぞれの存在や立場を尊重しあう、そして分担しあって社会はつくられてゆくものだと思います。
障がいなどで生き辛さを感じる方は、社会との整合が取れないからそう感じてしまうのかもしれません。その原因は社会にあることを誰もが受けとめて「つながり」「分担する」ことで、社会をシェアできるのだと思います。
支援は必ずしも施設の中で行われるものではないですし、施設に”通えない”とか”通う”という分けは「シェア」の価値感とは違ってしまう気がします。
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