ご家族は、ほとんどの人にとって、自分を最も理解してくれる人、家族のいる場所は、一番居心地が良いはずです。
ユースターを利用される方にとっても、本人の本質や原点にある大事なものが「家族」のようです。
家族が傍らにいて、本人を気持ちの面から支えるとか、安心を与えるなど、家族だからこそできることはたくさんあります。しかし、逆に、家族が本人の何かを「抑えてしまう」ときもあります。。。。
それは、例えば、就労支援でいえば「社会的な自立」「環境に対する物理的な成長」です。
ここで「抑えてしまう」と書きましたが、家族が意図的に本人の自立を阻害するまでではないものの、本人にとっては自分の一部でもあり、近い位置にいる家族が、本人の成長と自立にリアルに気づかない、ということはあるようです。
つまり、誰でも年齢と共に成長するものがある中で、家族は本人の成長から取り残されている、ということが往々にしてあるのです。
人間の成長、スキリング(スキルの習得)は誰でも自然に積み上げているにも関わらず家族だけがそれを知らない、気づかないということがあります。
一つの例として、実際にユースターであったエピソードです・・・
掃除機を使って掃除ができる本人です。しかし、本人も家族も
『掃除はできない』
・・と思っています。
それは、本人がどこまでできるかわからない、掃除っぽいことはできても、掃除とは何かを本人はわかっていないので「満足するレベルまで掃除することはできない」というイメージを家族が持っているのです。
そこで、本人の掃除のスキルを詳しくユースターで評価(アセスメントといって、本人がどこまでできるか、目的や意味はわかっているか等を調べること)させていただくと、誰かが掃除機のノズルを伸ばして、コンセントを差すまで準備をすると、自分だけで掃除機がけができる。ということがわかりました。また、掃除が終わった時に掃除機の中に溜まったごみの存在には気づいていませんでした。一杯になった掃除機内のごみを誰がどのように処理しているかにも意識は向いていませんでした。
このままで自立生活を始めた場合、家族が定期的に来て掃除機の中のごみを処分するか、一杯になりすぎて故障したり、吸引力が無くなることになります。そもそも掃除はできない、と家族に決められた本人に掃除の期待はできないので、掃除機を与えない、掃除は家族が代行する。ということになりがちです。
厳密にいうと「掃除機をかけることだけはできる」というのが現時点での力なので、あとは掃除機の準備と後始末(たまったごみの処理)を追加すれば、掃除の一連は本人に任せられるのです。でも「できない」と大括りで評価してしまうと、ほんのちょっとのことを覚えるだけで全てができるようになることも「抑えてしまう」ことになるのです。
また、ご経験のあるご家族もあるかと思いますが「ご本人は○○ができますか?」と聞かれ「やらせてみたことがない」と返答がかえってくることがあります。
やらせてみたことがない、と言ってしまうと、あたかも家族に責任があるかのように聞こえてしまいますが、そうではありません。
さらに、家族としては、本人に生活の細かいことを一つ一つをやらせて確かめることまでできません。そのような役割を家族は元々持っていないのです。
毎日の中で、本人に対してやるべき他のことがとても多くありますので、そこまでを家族の役割にするべきではないのです。
・・・では誰の役割か?
家族以外に本人に関わる人の役割・・例えば支援者の役割なのかと思います。
一定の年齢以降は、家族が本人に「やらせてみる」というのではなく、社会で、他の社会人との関わりの中で身に着けてゆく方が圧倒的に本人の力が伸びやすいのだと思います。
家族にしかできない支援を考える時には、家族ができないこと、しないで良いこと・・を知って割り切ること。そして支援者など社会の場で第三者に託すことだと思います。
では、「託す(たくす)」とはどういうことか? 次のブログで書かせていただきます。
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