「障がいによって、自分で生活ができないであろう」。。。だから、今は主に家族がフォローをしているが、将来、親なきあと、その「フォローが無くなってしまう(=ゼロになる)」と考えてしまいます。
この点を考えるために、上に書きました2点に着目しています。つまり・・・
①「障がいによって、自分で生活ができないであろう」
②「フォローが無くなってしまう(=ゼロになる)」
前のブログで、①「障がいによって、自分で生活ができないであろう」を細かい部分で本人の真の力、潜在的な力を見出せるようにしたら、親なきあとの不安が少し整理されるかもしてない、と書かせていただきました。
今日は
②「フォローが無くなってしまう(=ゼロになる)」について考えてみます。
親なきあと、心配になるのは今まで親が本人に代わってやっていたことや、色々受けていたサポートが一変するのでは?ということです。
本人には出来ない、と家族が思うことの代表例が、金銭管理、健康管理、日々の生活管理、地域との関係、時間管理、社会のリスクからの防衛など・・
一方で、比較的どなたもできる事としては、欲しいもの・やりたい事へのアクセスです。自分が楽しい、欲している、やりたいという欲求に対しては、案外知恵を働かせてアクセスできるものです。
欲しい飲み物、食べ物・・・比較的正しい名称でしっかり訴えたりしませんか?
そこで家族がフォローすることがあるとすれば、その行動を制御したり、本人が得た情報の正誤を見極める的なことになっていると思います。
例えば、”好きなゲームを買いたい”があるとします。どこで売っているかの情報は本人が得る。しかし、それが本人や家族の財力に見合っているかの判断は家族がすると言った形です。
ここで、本人が持つ力は”情報へのアクセス”、持っていない力は”金銭管理であったり、ゲームのやりすぎ防止の生活管理”のように見えます。
仮にそうだとしたとして、家族がいなくなり、フォローがなくなったときに、本人が持っていないであろう力は誰かが代行するということを考えるのが良いです。
具体的には、金銭管理は公的なサービスでも行ってくれる制度がありますし、人によっては、定期的にお給料等が入ってくる生活が始まると、自然に使うお金の量的な感覚が自分なりに身についてくる場合もあります。交渉をして成功するといつでも天井無く、親や家族からお金が出てくるから金銭管理の力が獲得しにくい、ということは良く見ます。
あたり前のことしか申し上げられずに恐縮なのですが、究極的には(家族などの)フォローがなくなった時点が”公助”、つまり福祉制度などでカバーが始まるきっかけになります。そして前もってカバーするサービスを探しておくということになります。
また、前述のように事務的にサービスが提供されるうちに、本人自身に力がついてくる可能性も加味して検討する、ということです。
このように、親や家族がいなくなった時に、親などが担っていた機能を細分化して、一つ一つ公のサービスや第三者の機能に置き換えてゆくのですが、置き換わることで、恐らく本人は一時的に不便を感じると思います。しかし、それは家族の不安よりはるかに小さいもの、と捉え、家族はその不便に不安を感じる必要はないのだと思います。
先ほどの例でいうと、金銭管理や生活管理はできないであろうと思われるが、実際に働き始めてお給料が定期的に入り、定期的に生活費が出てゆくことで、本人なりの意識が生まれ、金銭管理ができるようになる場合もあります。
見守るだけ、自分でできるようになるまで、整うまで社会サービスを利用するということでも良いのかもしれません。
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